9月, 2014年
ライブ
末っ子の恵音は近所の合唱団に入っています。
その合唱団は、私と妹二人がお世話になった幼稚園にあり、当時の幼稚園の園長先生は声楽家、そして芸大の声楽の先生でもありました。おまけに住職で私の父の同級生。今は引退なさっています。
そんなこともあり、合唱団ではその先生のお弟子さんであり、プロの声楽家である方たちが指導に当たられています。
歌うことは、精神的にも身体的にも、とても良いことだと思って末っ子に薦めました。それに語り継がれていって欲しいと思っている童謡唱歌って今、幼稚園でも学校でも、あまり歌わなくなってしまいました。その合唱団では、そういう歌も大事にしていると知って、ますます良いなと思いました。末っ子が入団して、1年が経ちました。
ついこの間、1年に1度の合唱団の発表会へ行ってきました。
演奏後に、指導してくださっている先生が「絵は形に残すことが出来るけれど、音楽は消えてしまう。今日のこの時間に、このメンバーで歌を歌うというのは、たった一度のこと」とおっしゃっていました。
まさに、ライブ!だなあと思いました。
liveという単語は「住む」「生きる」という意味で使う、もしくはライブに行く・・・音楽を聴きに行くというような意味で使いますよね。
気になって調べてみたところ、他にも「人生を楽しむ」「おもしろく暮らす」「生き生きしている」なんていう意味もありました。演奏、放送などに使う場合は「録音(録画)ではなく生の・・・」という意味で、よくコンサートとライブは何が違うのか?というようなことが聞かれますが、これはライブコンサートが短くライブという呼び名になったとも言えるし、コンサートはあらたまった雰囲気、ライブはカジュアルな雰囲気・・・と言われたりもするし。
放ったとたんに消えて行く音。その一つ一つの音で美しいメロディが生まれ、また消えて行く・・・。
音楽だけではありませんよね。すべてにおいて、その瞬間、そこに共にいる人、思い、言葉・・・その一瞬一瞬の巡り合わせで人生は作られているんだなあと、あらためて感じます。
坐禅
私のお寺では月1回、坐禅会をしています。坐禅は宗派によって、作法や捉え方などが違うとのことですが、私のお寺は臨済宗なので『無』になることをテーマに坐禅をします。
・・・なんて、書くのは簡単ですが『無』になるって、そんなに簡単なことではありませんよね〜。だからこそ坐禅するってわけです。
私はもちろん、無我の境地になんてなれません!(笑)最初の数回は努力してみましたが、たった一度だけ目の前の畳と同化したような不思議な気持ちになりました。
あ!これ?・・・な〜んて意識してしまったら、もうその時点で『無』じゃなくなってしまうわけで。
なので、その後は、ピアノの演奏で『無』になることを目指しているのだから、坐禅の方は無になれない時には妄想、想像タイムにしようと勝手に決めてしまっています。
でも、それでも、しないとするとでは雲泥の差があります。
去年、2月の演奏会までの間、月1度、坐禅をすることによって、もうひとりの自分が自分を観察してる、みたいな感覚になりました。
譜読みをして暗譜をしようと思ってる時期には、どうしても頭でっかちと言うか、頭で捉えようとしてしまいがち、でも、それもあしょうがない → もう本番までわずかだから、音楽を身体に沁み込ませて行こう・・・など、自分が時期に応じて変化して行く様子を観察しているような感じでした。
そういうことができると、変にあせったりしないで済むような気がします。どーんと構えていられるような気持ちになります。
そんな訳で私にとって、この月に一度の坐禅は大事な時間となりました。
・・・なんて、分かったようなこと書いてしまっていますが、睡魔に襲われることも多々あり、夫にパーン!と警策で(木の棒です)叩かれます。でも、これがまた妙に気持ちいいのです。しょっちゅう、叩いて欲しいと思っちゃうくらいなのですが、それも甘えかなと思い我慢しています。(笑)